F              NOBEL   2007〜2008 記

         半生の記
            松本清張 作
以前(下段記述)、やはり松本清張に関しての感想を記したが、ここで改めて、松本清張の自伝であり、私小説的な著書「半生の記」に関して、紹介を書きます。
数年前に亡くなり、ベストセラー作家としては、もう書店のお薦めコーナーに並ぶことは無いであろう亡くなった推理小説家の作品。時代を殊に反映し、その時代の暗部の中で逡巡し、苦悩に錯綜しながら、事件を展開していく推理小説は、兎角、時代が変わり社会の様相が変わると、何だか思い出話の様であったり、陳腐になってしまったり、現実性の切迫感に欠けるものになってしまいがちなものである。しかしながら、何故か作家松本清張の作品は、時代が変化しても、社会の様相、人々の感性や倫理観が大きく変化しても、闇の中の人物が、扉をこじ開け、壁面の土を掻きだして姿を現すかの様に、深い感慨と強い現実性を持って、魅力たっぷりに表出してくる。
それは、一重に他の推理小説家が、事件のトリックや謎解きに重点を置き、話題をさらおうとし勝ちなところにあって、純文学と違って、人間の描き方が事件の添え物、あるいは、こんな人だから、こんな事情があって、こんな因果関係に振り回されて、こうなった程度で終わりがちなところを、松本清張の切り口は、”似て非なり”。事件を起こした犯人が主役あるいは、主役に準じる重さと描きこみを持って、現され、事件を起こすに至った、苦しみと悲しみ、選択肢の得られなかった切迫した状況を、事件を憎みながら、人間を愛し、手を差し伸べ、掻き抱きながら、その最中で、振り切るように犯人に対して、同情と救済を手放していく見事さ。その力量が、作品をセンチメンタルに終わらすこと無く、時代を経ても変わらない人間の悲しさ、愚かさ、時代に翻弄され、取り返しのつかない事をするに至ってしまう人間の先が読めない冷静さの欠如をため息を持って、読者に感じさせるのである。序文が長くなったが、ここに記す「半生の記」は、松本清張が、如何に優れた作品を描くに至る道程をその苦しい辛い切ない人生の経験の中から割り出して行ったかが良く理解できるのである。
その人生の中からは、とても何時か素晴らしい作家になるだとか、世の中を驚かすベストセラーを書くだとかの意欲が見られない。とても不思議なことであるが、多くの作家やアーティスト等、世に出て行く人々がその根底に無くてはならない強烈な自己顕示欲やら、名誉欲等が”欠片(かけら)”程も見て取れない。そして、誰でも成功した人々が一様にして持っている成功への強い野心が、伺えない。ただ、貧困と,その為に断ち切られた学問への希望、孤独が見えるだけ。およそ、人生に夢を抱ける様な心の状態を持ち得なかった「半生の記」である。
しかし、運と偶然は、清張に作品を書いていくことになるように働きかける。頭をかすめた作家への小さな実現不可能な夢は過酷な人生の苦難によって、清張を作家へと押し上げていく。したい事を出来ず嘆かず、ひたすら一生懸命生きながら、ただ一つだけ、仕事においても人生においてもベストを尽くし、向上しようとしただけ。簡明で美しく虚栄も何も無い、正直な真摯な文面に深い感動を受ける。野心や強い自我が無くても、人は成功出来るという珍しい事例である。
                                     2008年 11月
   幸せは幸せを呼んでくる
                 宇野千代 作
宇野千代さんの本を何冊か読んだ。この本は小説ではないが、宇野千代さんの前向きで気持ちの良い生き方考え方を教えられて嬉しく、元気が出る。
宇野千代さんは、齢90歳にして、数年前に亡くなったが、死ぬ間際まで、この人はひょっとすると120歳と言われる人間の寿命の限界まで生きる気がするほど元気で、老いというものの特性をその人生に匂わせなかった。その生き方は、いつも景気が良くて、潔いのだ。
若き日、北海道で生活し、結婚していた宇野さんは、用事があって東京に出てきて、そこである男性に会い、恋愛してしまう。そして、そのまま東京でその男性と暮らし、二度と婚家先に戻ることは無かった。それ以降、その男性とも別れ、数限り恋愛を著名な作家や芸術家とし、そして別れを繰り返す。別れる時は、断腸の思いと言うに相応しい七転八倒をするものの、後はケロッと忘れ、また恋をする。別れた後、それぞれの男性からそのクリエーティビティと美意識をたっぷり影響を受け、豊穣な海の様に艶やかな笑顔で、自分がしたデザインの着物を洒落たコーディネーションで着て、生き生きと方々に出陣する。その気持ちの良い、可愛らしい、清潔感ある生き方は、他の作家や女優や新時代の女性たちにも見受けられない。そんな彼女の人生観を綴った本の一冊。ご一読あれ!人生が簡単になる。



       女と刀

                 中村きい子 作
十数年前に、とても頭が良く、人柄も誠実で、パリコレなどにも行った事のある、あるモデルにこの本を貸したが、その後、故郷に帰り、返却してもらわないまま、月日が経ち、この本の事も忘れていた。数年前に亡くなった中村きい子と言う作家は、一般の主婦から、この本一冊で賞を取り、著名となった人である。舞台は、男尊女卑の封建思想の観念が大変に強い幕末から明治にかけての熊本県。薩長の士族の娘として生を受けた主人公は、晩年にして、長く連れ添った夫を「一振りの刀の重さも無い男」と切り捨て、離婚する。この世にただ一人、我が子であり、尚且つ、心を通じ合う事の出来た息子も病で亡くし、断腸の思いの中、なお、士族の娘として、、また一人の人間としての尊厳を胸に、その余生を生きていく様は、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラよりも激しく、一貫している。人生に只の一度も男性と心を分け合う事の経験もしないまま生きながらも、彼女の叔母であった人の若き日に、身分も何も無い男性ではあったが、真実の女の愛に身を焦がした姿を男と女のあるべき姿として胸に刻んだ主人公は、自らの生きる思念を残り少ない人生に託していく。その生き方・信念は、壮烈で、清冽、心ひきつけられます。女性は勿論、男が読んでも、彼女の息子の姿と併せて、強い影響を受けるものでもあります。
もう一度この本を読みたいと強く念じながらも、今は、絶版で、購入の術も無く、古本屋さんをあたるしかない状態。どなたか、この本にであったら、是非、購入して置いて頂きたいと思います。
 

     作家 近松門左衛門
「冥土の飛脚」、「心中天の網島」、「曽根崎心中」他
今日の歌舞伎・浄瑠璃の発展の基礎を築いた作家のひとりである、近松門左衛門。
300年ほど前の江戸の封建制の中で、人の世の哀れと真実の心の美しさを著して、現代人にも共感できる。ことにその世話物は、人が人を大切に思うことの素晴らしさに感動を新たにさせられる。
少々、縁起でもないが世話物は、江戸時代の一時に人々の間に流行した心中ものが多い。閉塞したその時代の人生の中で、人々が互いの「真実」を心の頼りとして生きるその姿に
自由な選択と意思で生きられる現代であるだけに、改めて今を生きられる幸せと、失いがちな他者への「心の誠」を痛く感じる。


      作家 三島由紀夫
三島由紀夫に関して、今更、語るのは、本当に今更ながらであるが、改めて、三島由紀夫の作品を乱読する機会に恵まれ、次々に読み、深々と頭を下げたくなる。「午後の曳航」、「美徳のよろめき」、「花ざかりの森」、「憂国」、「仮面の告白」、「女形」「鍵のかかる部屋」他多数の短編。
13歳にして早くも、本を書きはじめたこの作家は、現代の同年代のそれに比べると、考えられない程早熟と言わざるおえない。文章の表現力の多岐性、どの様にしたらこの様な文章が書ける人となるのか。
まさに、天が何かの故あって、彼に文章を書く上での特別の才能を与えたとしか思えない。
彼の作品から、本当に作家と言うものは、自分の心の中の深遠を暴露することから避けられない運命である事を強く感じる。
作品とは、その人自身の思考の真の「告白」なのか、それともその告白から発した心自体にもやはり、「仮面」が複雑怪奇にかぶせられているのか。
兎角、生前においても、死後においても、その芸術性とあわせて、通俗的な興味で人物評をされることも多々あった作家であるが、その真実は、誰にも分からない。
ただ、作品が放つ、類まれな芸術創作力にただただ関心するのみである。
そして、三島由紀夫の先見性の鋭さ、新しさ、美意識、醜悪性の中にもまたさらなる美への想念に感心させられ、今、生きていたら、やはり、「時の人」の一人なのではないかと思う。
創作に関与する仕事の一つであるモデルと言う職業についている皆さんに、時間が空いた時、改めて、是非、再び、三島由紀夫の本に触れてみて欲しいと強く思いました。
但し、仕事現場以外で、、、が良いかも。


           林芙美子と言う作家
               魚介・牛肉・浮雲・晩菊・放浪記
銀座に芸術座と言う劇場がある。
以前は知らないけれど、何時ごろからか、中年男女、特に女性の紅涙を絞る商業演劇劇場である。商業演劇とは、数多ある演劇形式の一つであるが、主に、有名俳優や、客を呼べる女優がメインを張り、その役者を軸に創作される演劇である。従って、通俗性を帯びるところが見られるものである。
そんな芸術座に定期的に森光子と言う女優さんによる林芙美子原作の「放浪記」が度々かかる。上演回数は驚くべき記録をもっており、長い年月、大衆は、この演目を支えた。


             松本清張と言う作家
      
清張が歩んだ時代と人間達

清張が亡くなってから、随分と長い時が経った。
亡くなってからも、周期的にテレビや映画で、新しいものがカバーされ、我々の目に触れる。
清張が生き、作家として、描いた時代は、戦後の混沌とした時代から、日本が経済大国として、世界に認められ、やがて成熟の中に腐敗の根がふつふつと音を立てて、将来を危ぶむ時まで続いた。
清張が描く世界は、本道の人間が織り成す事件と推理ドラマから、歴史の考察、現実に起こった社会的事象、その他まで、広い。
そして、それらは、全て、清張独特の、やはり深い洞察と推理が基調をなしている。
過ぎ去った日、私は、清張の本に耽溺し、次から次へと読破した。
決して、恵まれた生い立ちとは言えぬ、人生のスタート台から、清張は、苦労し、一人創作の扉を開けていく。
容貌も美しくなく、将来を作り上げる何のバックボーンもない清張は、それだからこそ、人間の悲哀と、マイノリティな者への深い愛情が根底に流れる作品を数多く世に送り出した。
清張の推理小説が、他の作家のそれとは、一線を画して、深い感動を呼ぶのは、単なる犯人探しではなく、犯罪を起こした人間の、動機となった悲しい事情を描いている事にある。
「点と線」、「ゼロの焦点」、「砂の器」、「鬼畜」等多数の代表作品は、総じて、犯人に同情さえしてしまうのである。
そして、犯罪への切っ掛けは、日常的で、誰もが、一歩間違うと、陥ってしまいそうな言わば、最初は思ってもみなかった蟻地獄
に足を踏み入れてしまう心理過程が、丁寧に描かれている。
近年、テレビや映画で、新しい清張の映画を見たが、清張の作品の一番の骨子である
事柄と、品性が欠如している事を強く感じる。
是非とも、折があるときに、原作を読まれ、優れたこの作家の真髄に触れて欲しいと思う。
また、映画は、レンタルビデオに行けば見つかるが、松竹映画の野村芳太郎監督の物が、とても作者の意図に沿っており、素晴らしく悲しい。
モデルさんに薦める本が、何故、松本清張の本なのか?妙であると思っているが、確実に人の心を深くしてくれ、まるで違う感性が、実は、同じ右脳を刺激してくれる様に思えるのである。

    あの作者の
          この本読んでみた

     美砂子
 

一週間前に、
中村う○ぎさんの本と目が合い
初めて購入してみました。
読みたい本は沢山あるけれど、
この本はそれらを凌ぐ楽しさでした。
なんて言うか・・・心に思ってはいるけれど、
言えない事や言っちゃいけない事、
そんな内容が盛り沢山です。
けれど、早くこの本を脱出しないと,色んな意味で「社会復帰」が
出来なくなりそうです。
呼んだ人なら分かりますよね。
皆さんに勧めていいかは,
疑問です。
「エレガント」には,程遠いからです。
だた、やたらに気がめいった時は
無条件で笑わせてくれますよ。
皆さんは,どんな本
読んでいるのでしょうか。
             (MISAKOの掲示板より抜粋)


 
                Little Turn
    ブルック・ニューマン 作 / 五木寛之 訳
                        ■
本を読まなくなって、随分と久しい。
以前は、ファッションに関する書籍は、
もちろん、東京でも、ミラノやパリのコレクションの疲れを癒すため、ホテルで、明け方まで、冷たくなったカフェオレやボルドーのワインを傍らに、読んだものだ。

モデル達は、明日の仕事に備え、早々と
それぞれの部屋にこもり、ダイエットと肌の手入れ、着ていく洋服のチェック等を
している。

以前、日本を代表するデザイナーの
プレスをやっていた友人から、この本を
プレゼントされた。
リトルターン。
表表紙に「僕は、再び飛んだ。」と
あった。

100ページに満たない美しく淡彩な
イラストが本の大半を占めている。

これから頑張ろうとするモデルさん達に薦めるには、ちょっと元気の無い本だ。

主役は、昔、大空を思いのままに飛んでいたアジサシという鳥。
今は、何故か飛べなくなってしまい、地上をうろつく鳥である。
その彼(雄である)が、浜辺で、ゴーストクラブと言う蟹と出会い、次第に友情を育てるようになる。
その友情は、彼が元気だった時に、出会った友人達との間に交わされたような、熱く、同じ目的を据え、向き合ったものではなく、互いに遠い海の彼方を見つめる時、ただ隣にいるだけと言うような関係だ。

ある日、アジサシは、突然、飛ぶ事が出来るようになる。
以前とは、心象風景は、異なってはいるが、兎に角、飛べるようになる。
それは、以前のように向上心に燃えたものでは無く、挫折の上での事ではあったけれど。

ただ、挫折の中にあって、アジサシの心に度々訪れる考えは、

  ”もし、求める気持ちを自分の
     心から追い出してしまったら、
   その時は、自分が求めるものを
   手にする事は、とんでもなく、
          困難になるだろう” 
という事だった。

また、彼は、蝶に出会い、その美しさに
感嘆するが、そこでも彼は、思う。

  ”光が当たらない美しさとは、何なのだ     ろう。夜の闇の中で、蝶は見えない    存在なのだ。
   光が無くても、それでも蝶は
   美しいのだろうか?”と。
挫折を味わったアジサシは、以前の様に怖いもの知らずの元気は無いが、
その洞察と心の重さは、確実に深くなり、
彼は、一つの結論にたどり着く。

 “鳥は、その羽根や翼がどれほど価値があり、素晴らしいかを知らなければ、本当に飛ぶ事は出来ないのだ。高い空を飛ぶために、鳥は、翼の下にある全ての本質を見る必要がある” と。
 *(”の印内は、全て本から抜粋)

この本は、多分、読む人によって、様々な結論と比喩を感じ取らせてもらえるものだと思う。

モデルという職業の人達にとって、何か共感出来るところがあるような気がして、
RECOMMENDATION(お薦め)した。
追記
この本の訳をしている五木寛之さんの新書で、「運命の足音」と言う本を読んだ。
「大河の一滴」のすぐ後、に出たものだが、
分かりやすい文体で、押し付けがましくなく、人が生きること、森羅万象に関し、考えを述べている。日本人に珍しく、エレガント(否
本来日本人はエレガントだったかもしれない)で、謙虚な物事の捉え方と文体に、素敵な人になるということが、どんなことであるか?教えられた気がした。良い本だと思った。


裸で生きたい
ソニア・リキエル
今お幾つになられたのか?なんて、一般的日本人の他人に対する尺度である『年齢』で悪趣味で礼儀知らずな、若者主体的無意味な価値観で、人種的区分けを図るのは、この崇高な
ソニアリキエル様には失礼!!
いや、本当は誰に対してだって、熟知しない人間に対しての、話題の筆頭に『年齢』をあげるのは自分勝手で、自己本位で、世間知らずで、人権蹂躙な人間性貧困!『ノー・インテリジェンス』の
為せる技なのです。しかしながら、
思わずこの方には
聞いてみたくなります。
『マダム・ソニア、貴方様はお幾つになられるのか、聞いても好いですか!?』
後述しますが、ソニア・リキエル女史は、そう伺ってみたくなる、人間的に全てを超越する不可思議な魅力と存在感に溢れていて、どっちみち馬鹿な質問で、切り出したら、得意の疑心暗鬼な、でも少女の様な魔女の様な神秘性をもって「プッ」と笑みを持って噴き出すに違いないから、、、。
ソニア・リキエルの著書「裸で生きたい」
は、たぶん、ご自分自身に対する粉飾が少ない、自己紹介の本です。
彼女は、勿論歴史に残る服飾に対する人知未踏のトライアルをした優れたデザイナーであるわけですが、この本を読んでいると生まれおちた時から特異な個性を持った”詩人”であることに気付きます。何故なのか、古い体制の中にあったであろう時代と社会の中で、彼女は、願わずして、作為なしで周りの一般人とは異質な心理世界を持ち、その後の人生がどんなに平凡なスタート台にあろうとも、どんどん個性的で、一般的尺度では図り得ない好ましい素晴らしい女史になっていく萌芽を持っていた。
あるいは持たされるに至ったと言うのか?
誰もが知っている、ソニアの裏側や反対からの創造発想。
ニットのセーターの裏側を表にした時から、彼女の中で、既成概念の”美”とは違う“美”との出会いが生まれ、その後彼女は、
たった一人のココ・シャネルの公認候補として、野党それも戦いが見えすぎない野党として、政界ならぬ”服飾製界”から立候補したのである。
時に赤毛のこれ以上風を孕めない
ヘアスタイルと北欧を思わせる骨骨しい鼻梁を持ったその容姿は、サラムーンの写真で、お気に入りのモデル”アン・ローハ‐ル”以上に象徴的モデルであり、サンローランの次にエキサイティングなヌード写真は、人と言うもの、女性と言うもの、
デザイナと言う存在の領域を超えた、
アイコンであったし、これから改めて
再認識される絶対的価値観の存在である。本の紹介が、単なる紹介でなくなってしまったが、ソニアリキエルと言うデザイナーは、本当に価値ある、本当に素敵な
本当にその価値を忘れてはならない
デザイナーなのである。
ショウを前にコレクション・
準備の為、チュルリー公園の
陽だまりの中、椅子に横たわり、
煙草を燻らせていた貴方。
私は、貴方のショーに2名の欠員がいることをあるモデルから知らされ、
”直接、ソニアにアタックしたら良いわ!”
とアドバイスされ、勇気を奮い起して、
話しかけた。
「私がパリに連れてきている日本人モデルを是非オーディションして下さい!」
彼等は素晴らしいから!!
あまりに力が入り過ぎて、緊張して、口が回らない。彼女は、ニットのセーターのポケットに手を入れていたが、そのポケットには、ポケットの受け袋が無く、素肌が見えている。
なんとセクシーな人!
なんて自然なままの人!
なんてフランス人!
”What do you want?"
”御用は何ですか?
地の底から聞こえる様なこの世の
人にしては不思議すぎる
宇宙から来た人の様な”声!”
その後何を言ったか覚えていないが、
前後不覚で勧めた日本人モデルは、
パリの下町、RUE DRAGONにある
ソニア・リキエルの黒エナメルで塗られたメゾンに行き、そして無事に
当日、ショウに出演していた。
ソニアの新発売の”口紅”を
ステージの上で唇に塗るポーズをして
3人の日本人モデルが出演したが、
全員我々エージェンシーのモデルであった。祝杯をあげたものである。今でも思い出す、ニットセーターから見えたちょっと肉が豊かな(御免なさい!)腹部の肌を思い出す時、書名である
”裸で生きたい!”が鮮烈に蘇ってくる。
素晴らしい、才能に溢れたデザイナー達が時代の過酷な清算によって、不本意な
苦労を強いられている現在。
ソニア・リキエルは守られていて欲しい
貴方の個性、貴方の美意識、
貴方の自由、貴方のクリエーション。
心から願います。だって、ソニアリキエルは、パリそのものです。











 








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